3真のリーダーシップが規則を無用にする
太陽が地球が太陽の周りを回るのではなく、地球が太陽の周りを回るのだ、と説いたコルニクス、1543年にこの世を去った。その理論を述べた現行は、死の床についてかR印刷された。
迫害を恐れたから、常識はずれの物笑いになるのがいやだったのか、これははっきりしていない。しかし教会はこの印刷されな理論を読んで、ペルニクスが恐ろしい敵であったことに気がつく。
かれの理論を支持したガリレオは宗教裁判にかけられて拷問にあう。しかたなく自説を捨てると誓ったが、脱獄後、民衆に向かって「それでも地球は動く」と説いたと伝えられている。
さて、「規則が役人を動かしているのか」または「役人が規則を動かしているのか」と民衆に問いてみたらどうだろうか。民衆はどちらを答えるであろうか。
役人が規則を動かすべきことは、誰でも知っている。しかし現実にわれわれ民衆は、次のような答えを役人からしよっちゅう聞かされているのである。
「規則だから仕方ありません」「規則によってこうしてもらいます」「規則違反は困ります。 規則どおりにやって下さい」「小生個人としては賛成しないのですが、規則どおりにやらないと、上役から叱られますから・・・。
明らかに規則にふり回されている。ガリレオを拷問にかけた役人のように、規則の時代錯誤性や、妥当性などを考えることもなく、規則どおりに仕事を選ぶだけで、創造力を動かせる意欲は全然見られない。
規則どおりにやれば事がすむ仕事なら、中学出だけでやっつけた方がはるかに能率がよい。彼らが誇りとする学歴の力を借りる必要はさらさらなくなる。
だがこれは官僚の世界ばかりでない。
企業の中の中堅管理職と称する人々にも見うけられる。彼らのほとんど全部が、
というよりことごとくが、年功序列賃金体系の中で半ば自動的に出世のハシゴ段を登ってきた人々である。
リーダシップという最も高価な能力を見まれて就任した管理職ではないのである。
当然のことながら彼らは与えられた権限をふりまわして、部下を動かそうとする。
動機づけることは、抑制することよりも難しいが、
職務上の権限だけでは、部下を動機づけることは不可能である。
いきおい抑制することによってのみ、仕事を達成しようとする。
実際のところ、部下を抑制することが監督であり、リーダーシップであると考えちがいをしている管理者も数多い。
抑制がリーダーシップだと考えちがいをしている限り、部下を動機づける”こととはおよそ反対の行動をとってしまう。
意欲を失った部下は、いやいやながら仕事をするから、失敗も多いし、 仕事の達成はおくれる。
ここで管理職者は抑制のムチをふるって仕事をすすめなければならなくなる。
職務上の権限が第一のムチであるが、今日の拡大化された近代組織の中では、管理職の権限は大幅に制限されてきている。
自分が勝手に使えない権限は、業務分掌規定の中から掘り出してきておしつけていかねばならない。
そうすることによって、部下を軌道の上に走らせることに一応は成功する。
部下を脱線させないで業務をつづけさせるためには、
“動機づけ”の能力をもたない管理者は、たえず業務分掌規定やらいろいろな規則、
規約をもち出して、部下を統制するようになる。
組織は大きければ大きいほど、規制や規定が過剰に整備されてくる。
規則や規定が過剰に整備されてくればくるほど、組織は官僚化してしまう。
官僚化された組織の中で、”動機づけ”の能力をもたない管理者の統制によって、
従業員はますます仕事への意欲を失っていく。
官僚的組織はまったく無益で、有害だというのではない。
企業の発展段階における毎日の局面を一定の方針のもとに統制するためには、
官僚的組織はそれなりの効用をもつものである。
そうではあるが、官僚的組織なり官僚制が、社会的に意味のあるものになるためには、
それは有能なリーダーによって運営されていなければならない。
すべてが規則や分掌規定に従って運営されればよいというのであれば、
リーダーシップは不必要になってくる。
つまり管理職者は無用の長物だということになる。
規制や規定をふり回すことによってのみ部下を動かしている管理職者は、
自分の無能をおおっぴらに公言している者である。管理職者の自殺行為というほかはない。
官庁の管理職者に多く見られる例だが、
すぐ 「前例がないから」といって部下の提案を拒絶するタイプがある。
前例がないことが何も出来ないというのであれば、社会に新しい前進はなくなる。
前例のないことをするのが創造であり、人間の進歩である。進歩をさまたげようとする管理者がどうも眼につく。
帝人の大屋晋三氏は現役社長としては最古参格、老害社長”とか”ワンマン”とか悪口を言われているが、
自ら先頭に立って世界をかけめぐり、必要のない社規社則はドシドシやぶって活躍していると聞く。
この文字通り「走るトップ」にある時、 新聞記者が聞いた。
社長自身がどんどん仕事をしたら、部下はやりにくくなると思うが。
「そんなところが日本企業のセクショナリズムだヨ。
企業の組織が大きくなるとどうしても官僚的になる。
仕事とか事業とかは本来だれがやってもいいんだ。 大事なのは結果なのだ」
社長が偉くなりすぎると、下から生の声が入りにくくならないですか。
「それはあるナ。しかし、ワシはいつでも社長室にとびこんでこいと言っているのだ。
燃えるような情熱をぶっつけてくるやつは一人もいない。みんな小利口になっちまった」
これとは反対に、リーダーシップを身につけている管理職者は、
その資質によって部下を動かして職務を達成していく。
オーケストラの指揮者が使う指揮棒は、メンバーの演奏をみごとに統制し、
進行させるが、それは決して統制のムチではないし、ましてやニンジンなどではない。
有能な指揮者はこのように統制のムチを必要とせず、
むしろ動機づけてやることによってメンバーを統制しな がら目標へ到達する。
従って有能なリーダーにとっては、職務規則や分掌規定の類は、参考になるだけで、
部下をふりまわすための道具としては無用である。
すなわち、すぐれたリーダーは目標達成のためには、
職務規則や分掌規定を柔軟な頭で解釈し、
有効に適用して部下の職務遂行を助けるだけである。
規則や規定を優先させることはしないし、不適切な部分や時代遅れになった部分は、
次々と改善し、改編していくように努力する。
規則のために仕事をするのではないということが常に頭にあるので、
その適用については、常に仕事の目標を見失うことがない。
有能なリーダーシップが存在する限り、規則や規定はその陰にかくされて影がうすくなる。
改善されない限りこれらの規則や規定は、年と共に色あせていき、
時代おくれとなっていくことは必定である。真のリーダーシップによって、
規則は無用の長物と化していく。